しかし、以下、3年後の1989年8月1日の毎日新聞では、当時の現地の健康被害を伝える報道がなされています。甲状線がんこそ言及されてはいませんが、放射線医学にたずさわる人々が、こうしたことを知らないわけがないと思うのですが。紋切型に「四年」というのは、以下のような症例はすべて切り捨てられたうえでの「合意」ということですね。
また記事には住民による必死の告発で、明るみにでたと記事にあります。
「われわれはもはや、新鮮な空気を吸い、森を歩き、水浴びするという基本的権利を奪われた」
チェルノブイリについて、その甚大な影響から、あたかも「被害者」が受動的な存在で
あるかのように想像してしまいがちです。
が、こうした無数のひとびとのやむにやまれぬ動きがあって、1991年のチェルノブイリ法によってかろうじて、さまざまな措置がやっと可能になったのだなと思いました。
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