-----森崎和江「異族の原基」-----
けれども、棄てられた者の感覚は、そう単純でもなく
その裏側には、別の世界が育ちます。
いうなれば棄民という実質に対する、棄国の感性です。
国家をのがれてコスモポリティックになることよりも根深く、
国家を棄てるような執念が育つ。
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森崎和江さんは、戦前・戦後と炭鉱労働、海外移住、出稼ぎと、生まれた土地にいられなくなったひとたち、売られたからゆきさん、棄民あるいはみずからの意志で移動したおおぜいの女性たちについて記録しました。
この間、たくさんの巷の、市井の女の人たちや母親たちのとてもたくましく、質実なことば、姿にふれました。避難、移住、離脱、食糧調達、コミュニティづくり、計測所のたちあげ、さまざまな異議申し立て。いろんなことに決断と選択をしいられ、意志を問われました。
たとえそれが、どんな小さな行為であっても、棄てること、離脱の契機を孕んでいます。
そして、そうなってくるとそれまで見知らぬ女のひとたちの、母親たちの、協働がどんどんはじまるのです。
森崎和江さんは、こうも書きます。
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女たちは、自己を極小共同体として認識するのだ。その共同体は何ものかを統括し、生産し、
所有しているのである、それは他のいかなる原理による蹂躙をゆるさない。
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今日、3月8日の「女性の日」なのだそうです。
そうでした。そんなこともすっかり忘れていた。
こんな状況のなかで、毎日、原発と放射能のことが頭からこびりついてはなれなくて。
それでも、日々生きていかなくてはならなくて。
ゾンビになりたいーと若い女の人のように、すねるわけにもいかない。
死ぬかもしれないーとふんぞりかえって大言壮語するわけにもゆかない。
だけどこのありようには、自信と確信がある。
-----クラウディア・V・ヴェールホフ 「チェルノブイリは女たちを変えた」
「最大想定事故は、人々が同意しなくなったときに初めて現れる。
みんなが自分の汚染をそう悲観的にとらえず、
とりわけ母親たちが犠牲になる覚悟をしていれば、最大想定事故として
認識されないということである。
彼らが考えているようなこの<母性>なしには、
彼らの装置は作動されない、ということである。
だから大いなる怒りは私たちに、彼らのいう母性など
結局はむこうの方棒をかつぐものだと見抜かなければならない。
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原発事故後の壮大な尻ぬぐいと格闘すること。それは「誰の方棒をかつぐ」
ようなものとは決定的にちがいます。
棄てられる前に、棄てるような執念につきうごかされて、どんどん「異族」に
なっていく女の人たち、主婦、母親たちは、
そっぽを向いたままで、勝手に航路を切り拓いていきます。
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