2014年12月26日金曜日

「抽象の墓場」かあるいは生物としての連帯か。

いやがおうでも、ひとが ひょんと死んでしまう事態に

直面することになった。 軟着陸のために、「多死社会」という用語がどこからともなく

用意された。

ところで、ある種の人は、人の不可解な難病や死や、突然死を、興奮した様子で数えている。


みとめたくないけれど、そういう事態なのだ。核惨事下にあって、もっとも驚愕したのはこのことだ。

人が、人の死ぬのを、喜ぶ。 

楽観論者が、危険論(=現実論)者について、時折まゆをひそめるのは、この不謹慎さに

よるものだ。


なので、あえて、物騒で 不謹慎な問いをたててみる。

たとえば知人や、友人が

事故後にあのときあんなことをいって、自分を嘲笑ったりした人間が、

じぶんの警告を無視して、あんな行動をとった人間が死んだとき、

どういう感情をいだくか、ということを創造してみる。

かなしめるだろうか。 あるいはその死を、

自分の正当性の証明として、よろこぶのだろうか、と。


「だから、いわんこっちゃない」

そう、よろこぶことには、被曝の危険に対する畏怖と、自己予測があたった

事に対する、よろこびを含んでいる。

一方で、現実的に「あんな行動」によって亡くなってしまったのだから

じぶんが忌避している当の核によって 一人殺されたことにもなる。 

自己是認と他者の扼殺が表裏だ。


そんな問いをたてなくてはならないほど、核惨事は残虐だ、ということだ。

扼殺の時間が、くりのべられているために、おおくの人はそれと気づかない。


この、まのびした残虐さを前に、ひねくれた興奮、でおわるのか。


あるいは、あえて「抽象の墓場の前」で泣くのか、あるいは「生き物としての連帯」

の道を、さぐるのか。



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1918年、私の母の弟を含め、4000万人~1億人もの命を奪ったインフルエンザの大流行があった。このような災厄の時期に、ひとりひとりの苦しみを思い描くのは難しい。
世界大戦や飢饉などの大災害では、死は我々の感情では、理解できない種レベルの出来事にまで集団化される。

 その結果、被害者は二度死ぬことになる。

 彼らの肉体的な苦しみは、ひとりひとりの人格が大惨劇という汚水に飲み込まれてしまうことによって、倍増するのである。フランスの作家、カミュはいった。「死んだ人間というものは、その死んだところを見ない限り広く史上にばらまかれた一億の死体など、想像のなかでは、一抹の煙にすぎない」

 人は、大勢の人の死を悼むことはできないし、抽象の墓場の前で泣き叫ぶこともできない。

ほかの社会性動物とは違って、われわれには、集団の死を悲しむ本能はなく、仲間の死によって自動的に生物学的な連帯感...が生じることもない。

それどころか、ひどい場合には、ペストや津波、大量殺戮、摩天楼の崩壊などで、
ひねくれて、ときに興奮すら覚えて、スケールの大きさに圧倒されたりもする。



                        マイク・デイビス 『感染大爆発 鳥インフルエンザの脅威』



2014年12月25日木曜日

第17回福島県健康管理調査検討委員会 4人 2巡目がん疑いに



今日、12月25日に開催。第17回「県民健康調査」検討委員会。これまでの「因果関係はない」の

いってんぱりの見解から、微妙な変化がみてとれる。

「甲状腺がんと診断が認定が確定すれば、原発事故後にがんの増加が確認された初のケースとなる」
「調査主体の福島県医大は確定診断を急ぐとともに、放射線の影響かどうか慎重に見極める」

(福島民友新聞 2014.12.21)


「チェルノブイリ事故から4~5年後に、甲状腺がんは急激に増加した」という見解があるけれど、

それを念頭においてかの、慎重なものいいになっているのかもしれない。


*また1巡目で「がん」診断が確定した子供は、8月公表時57名から、27名増え、84名。

「疑い」が46名(8月時点で46名)、24名に。





2014年12月7日日曜日

「意識は事故があってはじめて目覚める」 『アクシデントと文明』ヴィリリオ


放射性物質に対して気にしだしたひと、調べている人は、おぼろげながら感じているのでは

ないかと思う。 

政治的「不正義」「正義」の問題であると同時にいやそれ以上に、自分の意識と物質との

関係の「変容」という事態なのではないかと。


「またヴァレリーに耳を傾けよう。曰く、
 
“道具は意識から消えていく傾向がある。その動作は自動的になったと日常よくいわれる。
ここから引き出すべきは、次のような新たな方程式だ。

すなわち、
意識は事故があってはじめて目覚めるというものだ”

こうした無能ぶりを確認した結果として、次のような明確で決定的な結論に達する。
 
“やり直しや反復が可能となったものはすべて、おぼろげになり、黙り込む。

機能はもっぱら意識の外にある”」

                                『アクシデントと文明』ポール・ヴィリリオ

2014年12月2日火曜日

菅原文太さん永眠。 ありがとうございました。


菅原文太さんがなくなられました。反原発や沖縄反基地への応援、支援について

語られているようですが、

この場面はいっとう地味ですが、一番わすれられないひとこまです。

2013年夏。もと双葉町·町長の井戸川かつかたさんへの応援。

新宿の雑踏で、正直、お世辞にも、たくさんとはいえない聴衆を前にしたスピーチ。


開口一番、「低線量被ばく.......ということばをしっているかな?」と。

その他にも、巣鴨のとげぬき地蔵など、こまごまと応援にまわっておられたようです。

はなばなしいところだけでなく。

さいごのさいごまでかっこよく。 ありがとうございました。






2014年12月1日月曜日

「現実の彼方、またはまやかしの理想―原発を選んだ日本の核有事・住民移動管理政策」


“Beyond reality – or – An illusory ideal: pro-nuclear Japan’s management of migratory flows in a nuclear catastropheCécile Asanuma-Brice
つまるところ、「放射性物質からはできるだけとうざかる」「できるだけ浴びないようにする」が原爆被害、過去の核災害からの教訓であり、原則であるにもかかわらず。

なぜ、日本政府は許容線量を20ミリシーベルト/年間にまでひきあげた上で、
「帰還政策」を推奨するのか。

『現実の彼方、またはまやかしの理想―原発を選んだ日本の核有事・住民移動管理政策』
都市社会学研究のセシル.浅沼.ブリスさんによる力作
復興政策のキーワードになっている「レジリエンス」概念。日本財団(チェルノブイリで甚大な支援をおこなってきた旧「笹川財団」)の主催する「国際会議」でもこの「レジリエンス」がうたわれていました。
科学、都市工学、災害社会学、いろいろな文脈で使用されているようですが、てっとりばやくいうと、災害、トラウマなどからの人「回復する力」を重視するという概念。 
この間「復興政策」「国土強靭化政策」の中でも謳い文句にされてきました。
この使用は、「自然災害」と「人災/科学禍」との境界をかぎりなくあいまにしてしまう。

この概念を、原子力災害に適応すること、高線量地への「帰還」を推奨する
日本政府また、その背景にあるエートスプロジェクトなど、原子力シンジケートについても、
警鐘をならしています。

日・仏・英語版あり。必読
「神奈川大学評論」11月号に掲載


こちらは関連して
「福島への帰還を進める日本政府の4つの誤り-隠される放射線障害と健康に生きる権利」
旬報社  http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/939?osCsid=lg5iubto5011r0lj6r4rlaofo2




2014年11月29日土曜日

ギュンター・アンダース「核の時代のテーゼ」:大胆不敵な不安

ギュンター・アンダースは、ベンヤミンのいとこ。反ファシズムの非合法活動にかかわり、
戦後は原子力時代の幕開けに際しファシズム経験を軸に、
『異端の思想』『時代おくれの人間』はじめ、広島、長崎に関しても数冊の書物をのこしている。

カフカ研究のかたわら、ヨーロッパの反核運動のなかでロベルト・ユンクとともに「核の時代の」
哲学者とよばれる。
チェルノブイリ事故も見届け、1992年に亡くなった。

そのギュンター・アンダースが、1959年に残した「核の時代のテーゼ」という一文中に、
「不安について」というなんとも不思議な一説がある。

おそらく事故の前にもこのくだりには触れてれてはいたはずなのだけど、
すっかり忘れていた。

原発事故以降、「不安」「恐怖」こそが、まっさきに鎮圧の対象になった。

ひとたび事故が起き、もはや技術を操作できないと悟れば、政府も電力会社も即人間を操作する方向に力をそそぐのは、ある意味、原子力の本質なのだ。

だから、いまだに、というか来年度の「復興事業予算」でも、実際の健康対策以上の予算はびびたるものなのに、「不安解消事業」に莫大な金額が投入されている。(ホール・ボディーカウンターもここに計上されているのは、笑止。それがまじない、気休めだとみずから告白しているようなものだ)

それでもこんな状況で「不安」や「恐怖」は決して、完全に鎮圧しきれない。
ちょっと静かになったかな、このままみんな黙ってしまうのかな、と思っても
恐怖をよびさます現象や、出来事は一回性のものにはおさまらない。

あたりまえだ。 原因は、凶暴・凶悪な「核」なのだから。
そんななかで行儀よく、とりすましているられるほうがよっぽどの「狂気の沙汰」なのだと思う。


Theser zum Atomzeitetalter by Gunther Anders

不安について

生々しく「無」を表象することは、心理学における「表象」ということばで私たちが
イメージするものとは同じではない。

むしろそれが具体的に現実化するのは、不安としてである。

わたしたちの不安は小さすぎて、現実や脅威の規模にみあっていない。

ーーわたしたちはすでにずっと「不安の時代」に生きていた、というような、
知ったかぶりをする人々が好むフレーズとほど間違ったものはない。

わたしたちにそうしたことを吹き込んでいるのは、真の不安を、つまり危険性に
見合ったわたしたちのを不安を感じる能力に対してこそ、不安をもつ者たちを、
メディアであれこれもちあげるような手合いにほかならない。

むしろわたしたちははるかに、無害化された不安、不安を抱くことの無能力の
時代に生きている。

したがって私たちの表象力を拡大せよ、という命法が具体的に意味するのは、
わたしたちの不安を拡大しなければならない、ということである。

命題

・不安に対する不安を抱くな。
・不安への勇気をもて。不安を引き起こす勇気も。
・自分自身にも隣人にも不安を感じさせよ。

もちろんこの種の不安は、次のように非常に特殊なものでなくてはならない。

1.大胆不敵な不安。私たちを臆病ものとして嘲弄する者に対する不安とは無縁だから。

2.活気をもたらす不安。わたしたちを部屋の片隅にではなく街角へと駆り立てるものであるのだから。

3.わたしたちに降りかかりうるものだけでなく世界についての不安をもたらす愛をともなう不安。


「核人間/ホモ・ニュークレアリウス」あるいは,牧人司祭権力


3年以上たってやっと核惨事下で進行中の事態を「思想化」する糸口をつかもうとしているひとたちの趨勢がうまれつつあるようにおもう。姿はみえないのだけど、そうした人たちの存在は、確実に「遍在」している。


----「意識は“事故”があってはじめて覚醒する」 ヴァレリー ----


思えば事故当初から、少なからぬひとびとが、徒手空拳でこの事態にむきあった。
物質の具体性を、出来事の具体性を、時間の不可逆性を把握しようと、知覚を研いだ。

現状を否認したいがための予見、たかをくくったような逆ばりのレトリック、
しがらみや、習い性、思考の癖からでたことば。 具体性の裏付けのない抽象論は、
これからも、ぶざまに「現実」に裏切られていく。


いまも進行中の未曾有の事態にあっては、本来、だれしもがこの事態の<門外漢>なのだ。
だから徒手空拳であることに、てらいのない人間は、おそらく踏みまちがえない。


これは必読。

「天にまします我らが専門家よ 福島国際専門家会議をめぐる門外漢の考察」
http://csrp.jp/posts/1923
ナディーヌ・リボー、ティエリー・リボー


"原子力を続けるか否かという問題ではなく、原子力とともに生きていける人間をいかにつくるかという問題に解答をもたらし得るのは科学(技術、遺伝学、医学、心理学)しかないという議論——偽りの議論——なのである。まさに「ホモ・ニュークレアリウス(核人間)」の完成に向けた作業なのである"

核惨事下にあってわたしたちがおそれてきたのは、「物質」そのものであると同時に、「専門家」による、このしらじらしくもわざとらしい「操作」、社会演出そのものだ。科学ににせようとした、ことばのレトリックだ。

別のことばにいいかえよう。

「原発事故の際に、もはや技術を操作できないゆえに、人間を操作する方向に切り換えることは原発の本質からくる当然の帰結であると言える」  『チェルノブイリの雲の下で』

もともと凶暴・凶悪な「核兵器」を、社会のなかに「発電」と称してうめこんできたのだから、被ばくを受忍させるための人間への操作は、巧妙だ。

ゆえに、この操作は、つねに「暴力」の形をとってあらわれるとは限らない。

「被ばくについてさわぎすぎると、もっとも汚染されたところに暮らす人を傷つける」
「福島県民を傷つける」「被ばくの恐怖を語ることは差別にむすびつく」という風に、
人々に「内省」と「慎み」と「疚しさ」をうえつける。

この信仰はまた、免罪符にはことかかない。「食べて応援」「福島に観光」「被災者に寄り添う」「測って安心」。

けれど、免罪符がつねにそうであるように、結果として恩恵が与えられるのは
とうの人々ではなく、司祭権力であり、免責されるのも核シンジケートそのものなのだ。