2014年11月29日土曜日

「核人間/ホモ・ニュークレアリウス」あるいは,牧人司祭権力


3年以上たってやっと核惨事下で進行中の事態を「思想化」する糸口をつかもうとしているひとたちの趨勢がうまれつつあるようにおもう。姿はみえないのだけど、そうした人たちの存在は、確実に「遍在」している。


----「意識は“事故”があってはじめて覚醒する」 ヴァレリー ----


思えば事故当初から、少なからぬひとびとが、徒手空拳でこの事態にむきあった。
物質の具体性を、出来事の具体性を、時間の不可逆性を把握しようと、知覚を研いだ。

現状を否認したいがための予見、たかをくくったような逆ばりのレトリック、
しがらみや、習い性、思考の癖からでたことば。 具体性の裏付けのない抽象論は、
これからも、ぶざまに「現実」に裏切られていく。


いまも進行中の未曾有の事態にあっては、本来、だれしもがこの事態の<門外漢>なのだ。
だから徒手空拳であることに、てらいのない人間は、おそらく踏みまちがえない。


これは必読。

「天にまします我らが専門家よ 福島国際専門家会議をめぐる門外漢の考察」
http://csrp.jp/posts/1923
ナディーヌ・リボー、ティエリー・リボー


"原子力を続けるか否かという問題ではなく、原子力とともに生きていける人間をいかにつくるかという問題に解答をもたらし得るのは科学(技術、遺伝学、医学、心理学)しかないという議論——偽りの議論——なのである。まさに「ホモ・ニュークレアリウス(核人間)」の完成に向けた作業なのである"

核惨事下にあってわたしたちがおそれてきたのは、「物質」そのものであると同時に、「専門家」による、このしらじらしくもわざとらしい「操作」、社会演出そのものだ。科学ににせようとした、ことばのレトリックだ。

別のことばにいいかえよう。

「原発事故の際に、もはや技術を操作できないゆえに、人間を操作する方向に切り換えることは原発の本質からくる当然の帰結であると言える」  『チェルノブイリの雲の下で』

もともと凶暴・凶悪な「核兵器」を、社会のなかに「発電」と称してうめこんできたのだから、被ばくを受忍させるための人間への操作は、巧妙だ。

ゆえに、この操作は、つねに「暴力」の形をとってあらわれるとは限らない。

「被ばくについてさわぎすぎると、もっとも汚染されたところに暮らす人を傷つける」
「福島県民を傷つける」「被ばくの恐怖を語ることは差別にむすびつく」という風に、
人々に「内省」と「慎み」と「疚しさ」をうえつける。

この信仰はまた、免罪符にはことかかない。「食べて応援」「福島に観光」「被災者に寄り添う」「測って安心」。

けれど、免罪符がつねにそうであるように、結果として恩恵が与えられるのは
とうの人々ではなく、司祭権力であり、免責されるのも核シンジケートそのものなのだ。



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