2012.2.20 東京新聞1面に以下の記事がのっていた。
これをみて思うこと。ひとつとして事故後の政府や行政の情報がまったく信用できない暗闇
のなかで、たくさんの人々が申しあわせたわけでもないのにあちこちではじまった計測活動が、
レベル7のあとでのはからずもの「相互扶助」「協働」、あるいは「市民科学」であったということ。
思うに、素人が入手できるガイガーカウンターなどというものは、i-phoneと並べてみても
超ローテクノロジー。少しでもおぼえのあるひとなら、キットでハンダゴテで工作すること
もできる。こうしたローテクノロジーが、次第に政府や行政をおいつめていったということ。
けれども、もう少し踏み込んでいうと、こうした活動がはじまるころに生じていたのは、
「知覚の内戦」とでもいえるような事態だったのではないかということ。
ウルリッヒ・ベックはリスク社会論の中で、以下のような指摘をしている。
「19世紀の危険は、感覚的に知覚することができた。それと異なり、今日の文明生活の
危険は、通常、知覚できるものではない。むしろ科学や物理学の形でしか認識されない
のである。危険を危険として視覚化して認識するためには、理論、実験、測定器具など
の科学的な知覚器官が必要である」
「ゆえに危険を知覚することは政治性を帯びる」と。
いまとなっては、わたしたちはこの「危険の知覚」が何をさすのか、もう手に取るように、
いや痛いほどわかってしまう。
この本自体、チェルノブイリ事故がドイツ、ヨーロッパにもたらした「危険」「リスク」をどう考える
かという視点から書かれているのだから、あたりまえといえばあたりまえなのだけれど。
エクストリームなリスク社会は、「危険を知覚できない」故に、「危機の知覚」をめぐり
びとの間に不信・齟齬・対立・軋轢がうまれる。
計測活動に対するおおくのそしりと、活動のよい意味でのとらえどころのなさも
ここに由来する。政治的立場を超えて「知覚器官」がとぎすまされているかどうか。
もっというと自分の知覚できているものを、すべての知覚だと錯誤したい/できる人間と、
そうではなく知覚外の知覚を欲そうとする人間との抗争。
たぶん今後、数十年にわたってこの「知覚の内戦」は状態は継続してゆく。
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