2011年3月の原発事故以来、新宿や周辺の公園の「砂場」の放射線量を自主計測することからはじまりました。これから到来する被曝社会についてまたその根底にある核の問題を広く考えていきます。 Tokyo Sandpit Project - a project to measure and publicize radiation level in playground and sandboxes in Kanto-area, to protect children from internal radiation exposure.
2012年2月28日火曜日
「水俣」と「福島」:アイリーン・美諸子・スミスさんインタビュー
ながらく水俣病に写真家のユージン・スミスさんとかかわってきたアイリーン美緒子
スミスさんが、現在の原子力事故後の政府や企業の対応は、かつて世界初の
<公害病>水俣病に関し政府・企業のとった対応に、酷似していることを指摘する
インタビューが掲載されていました。
アイリーンさんの述べる共通点は以下...
水俣と福島に共通する10の手口
1 誰も責任を取らない/縦割り組織を利用する
2 被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む
3 被害者同士を対立させる
4 データを取らない/証拠を残さない
5 ひたすら時間稼ぎをする
6 被害を過小評価するような調査をする
7 被害者を疲弊させ、あきらめさせる
8 認定制度を作り、被害者数を絞り込む
9 海外に情報を発信しない
10 御用学者を呼び、国際会議を開く
毎日「かつて水俣を、今福島を追う アイリーン・美緒子・スミスさんに聞く」
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120227dde012040007000c.html
ほんうに1~10までまったく同じです。こうした罪が、組織的で巨大あれば
あるほど組織的かつ巨大な隠蔽も可能になるという、逆説がはらたいています。
あまりに「巨大」で「組織的」であると、反対にそれを問題視することができなく
なっていってしまう力というのが働くのです。
その「恐ろしさ」が半世紀以上たっても、反復されようとしているのです。
その反復こそが、なにより「恐ろしい」。
(もっとも有機水銀による健康被害と、放射性物質による健康被害はその
性質・表出もことなるので留意して検討しなければならないところでもあります。)
また実被害が<健康><病>にかかわると、「差別」を構造的に作り出す。
また被害が<弱いもの><子供>に及ぶと、親/養育者の自己責任化に
転化させられるのです。
アイリーンさんは以下のように語られます。
「今、水俣の裁判闘争の先頭に立つのは50代の方々です。まだ幼い頃に水銀
に汚染された魚を食べた世代です。だから、福島に行くたびに思う。小さな子ど
もたちに将来、『あなたたち大人は何をしていたの?』と問われた時、謝ることし
かできない現実を招きたくないんです」
チェルノブイリ事故時の放射性物質は、現在でもヨーロッパの食品から頻繁に
検出されます。また現在でも、事故による健康被害についても疫学的統計として
表出しつつあるものもあります。
また特に、2の<被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む>
については戦慄します。原子力事故から1年たったいまも、
私たちは日々、「支援のために買って食べる」「食べない」/「気にする」「気にしない」
「受け入れる」「受け入れない」という問いをつきつけられています。
この作られた「問い」が、(濃淡こそあれ←ここには留意しなくてはなりませんが)、
被曝させられた人々へと、なすりつけられることによって(なすりつけられることそれ
自体によって)原子力事故そのものが免責されていく構造をみぬかなければなりません。
(それこそ責任の<拡散>と<希釈>)
アイリーンさんのおはなしから、10年後、20年後、30年後...を見据えて今なにを、
すべきか、また、すべきでないか、なにに同調してはならないか、がよくわかります。
2012年2月27日月曜日
新しい食品基準に対する意見:その2「内部被曝研究会より」
2012年2月24日付けで4月以降の食品放射性物質に関する新基準が正式に決定されました。
2011年3月17日以降の「暫定基準値」に比し、値は低くなるものの、土壌汚染・水質汚染の
全体像もさだかでない中、また未曾有の人口過密地域「首都圏」汚染という、さらにチェル
ノブイリとことなり、“流通が発達した”国内の状況を前にして、この基準値は私たちに疑問を
いだかせるに、十分なものです。
以下、「市民と科学者の内部被曝問題研究会」より、この基準値についての批判論点を
紹介しておきます。
「市民と科学者の内部被曝問題研究会」
http://blog.acsir.org/?eid=14
①「放射性セシウムスクリーニング法」に記載されているように「広範囲の食品に放射性物質
が含まれる事態となっている」にもかかわらず、「分析対象」を「放射性セシウム(Cs-134及びCs-137)に限っていること。
②「対象食品」を「一般食品」に限定し、乳児用食品、牛乳、飲料水を除外していること
③「食品中の放射性セシウムスクリーニング法の考え方」「1.スクリーニング法」では「検査の目的は、食品衛生法で規制された食品を流通させないことである」と謳っていること
④「1.放射性セシウムスクリーニング法」「5 検査結果の記載」に「スクリーニング結果の測定値は参考値として記載し、測定下限値以下の場合は測定か現地を明記した上で、その旨を記載する」と極めて不明瞭な文言(各食品に記載するのか、「その旨」が実際の計測値なのか不明)となっていること
⑤「1.放射性セシウムスクリーニング法」には「平成24年4月1日より施行されることとなった」食品衛生法の規格基準を受けて、「一般食品の基準値である100BQ/KGに適応できるようスクリーニング法の見直しを行った」とされていますが、もととされる新基準に問題があること
-----------------------------
と、納得できる見解です。以下思うところを。
①についてはセシウムだけでなく、ストロンチウム、プルトニウム等、人体に有害な物質に
ついても、検査体制をは極力はやめに構築すべきと思います。(食品以外の土壌検査など
でもセシウム以外の検査体制に着手する気配はみられないのですが。。。。)
②に特に「乳幼児食品」ついては、文科省内の放射線審議会が委員に「新基準値は緩すぎると意見提出するようにすすめる」といった工作めいた事態まであったことが発覚しました。
その理由は「混乱を避け、既存の産業を守るため」だそうですが。。。本末転倒しています。
昨年末、明治の粉ミルクステップから、1キロあたり30.8ベクレルのセシウムが検出された
ことは記憶に新しいと思います。
目先の利益を優先し、将来的な「保健衛生」「児童の健康」をなえがしろにする。そんな姿勢が事故後もまるで改められないということに、いきどおりを覚えます。
④について<流通させないこと>となっていますが、これだけでは「流通」させないだけであって
生産までの追跡調査が軽視されています。検出された食品の生産地、製造過程などできるだけ
さかのぼるべきでしょう。
また⑤についてそもそもこの新基準値について
設定にあたって「生涯累積実効線量を100mSv」(当初は外部被曝と内部被曝の合計とし、最終的には理由抜きで内部被曝“だけ”とした)がベースとされました。そして食品の摂取による内部被曝だけで一般公衆の年間被曝限度1mSv/年を充ています。が、原子力推進側の意見を反映しているとされるICRPですらも、一般公衆の年間被曝限度を1mSvとしています。
総じて「新基準について」なぜ、こんなことになるのか謎です。いつのまにか外部被曝は含まないことにされてしまっているし、これでは線量の高い所に暮さざるをえない人々の健康への配慮も欠く。また乳幼児・児童・若年層はじめとした人々に対しての“安全の基準”とはとてもいえないのではないでしょうか。
食品新基準 2012年4月から
*注) あくまで「セシウム」のだけの基準であって事故後に拡散した放射性物質すべての核種の基準でないことに留意しましょう。
2011年3月17日以降の「暫定基準値」に比し、値は低くなるものの、土壌汚染・水質汚染の
全体像もさだかでない中、また未曾有の人口過密地域「首都圏」汚染という、さらにチェル
ノブイリとことなり、“流通が発達した”国内の状況を前にして、この基準値は私たちに疑問を
いだかせるに、十分なものです。
以下、「市民と科学者の内部被曝問題研究会」より、この基準値についての批判論点を
紹介しておきます。
「市民と科学者の内部被曝問題研究会」
http://blog.acsir.org/?eid=14
①「放射性セシウムスクリーニング法」に記載されているように「広範囲の食品に放射性物質
が含まれる事態となっている」にもかかわらず、「分析対象」を「放射性セシウム(Cs-134及びCs-137)に限っていること。
②「対象食品」を「一般食品」に限定し、乳児用食品、牛乳、飲料水を除外していること
③「食品中の放射性セシウムスクリーニング法の考え方」「1.スクリーニング法」では「検査の目的は、食品衛生法で規制された食品を流通させないことである」と謳っていること
④「1.放射性セシウムスクリーニング法」「5 検査結果の記載」に「スクリーニング結果の測定値は参考値として記載し、測定下限値以下の場合は測定か現地を明記した上で、その旨を記載する」と極めて不明瞭な文言(各食品に記載するのか、「その旨」が実際の計測値なのか不明)となっていること
⑤「1.放射性セシウムスクリーニング法」には「平成24年4月1日より施行されることとなった」食品衛生法の規格基準を受けて、「一般食品の基準値である100BQ/KGに適応できるようスクリーニング法の見直しを行った」とされていますが、もととされる新基準に問題があること
-----------------------------
と、納得できる見解です。以下思うところを。
①についてはセシウムだけでなく、ストロンチウム、プルトニウム等、人体に有害な物質に
ついても、検査体制をは極力はやめに構築すべきと思います。(食品以外の土壌検査など
でもセシウム以外の検査体制に着手する気配はみられないのですが。。。。)
②に特に「乳幼児食品」ついては、文科省内の放射線審議会が委員に「新基準値は緩すぎると意見提出するようにすすめる」といった工作めいた事態まであったことが発覚しました。
その理由は「混乱を避け、既存の産業を守るため」だそうですが。。。本末転倒しています。
昨年末、明治の粉ミルクステップから、1キロあたり30.8ベクレルのセシウムが検出された
ことは記憶に新しいと思います。
目先の利益を優先し、将来的な「保健衛生」「児童の健康」をなえがしろにする。そんな姿勢が事故後もまるで改められないということに、いきどおりを覚えます。
④について<流通させないこと>となっていますが、これだけでは「流通」させないだけであって
生産までの追跡調査が軽視されています。検出された食品の生産地、製造過程などできるだけ
さかのぼるべきでしょう。
また⑤についてそもそもこの新基準値について
設定にあたって「生涯累積実効線量を100mSv」(当初は外部被曝と内部被曝の合計とし、最終的には理由抜きで内部被曝“だけ”とした)がベースとされました。そして食品の摂取による内部被曝だけで一般公衆の年間被曝限度1mSv/年を充ています。が、原子力推進側の意見を反映しているとされるICRPですらも、一般公衆の年間被曝限度を1mSvとしています。
総じて「新基準について」なぜ、こんなことになるのか謎です。いつのまにか外部被曝は含まないことにされてしまっているし、これでは線量の高い所に暮さざるをえない人々の健康への配慮も欠く。また乳幼児・児童・若年層はじめとした人々に対しての“安全の基準”とはとてもいえないのではないでしょうか。
食品新基準 2012年4月から
*注) あくまで「セシウム」のだけの基準であって事故後に拡散した放射性物質すべての核種の基準でないことに留意しましょう。
2012年2月22日水曜日
<知覚をめぐる内戦> 「草の根線量計測活動」【東京新聞2012.2.20】について
2012.2.20 東京新聞1面に以下の記事がのっていた。
これをみて思うこと。ひとつとして事故後の政府や行政の情報がまったく信用できない暗闇
のなかで、たくさんの人々が申しあわせたわけでもないのにあちこちではじまった計測活動が、
レベル7のあとでのはからずもの「相互扶助」「協働」、あるいは「市民科学」であったということ。
思うに、素人が入手できるガイガーカウンターなどというものは、i-phoneと並べてみても
超ローテクノロジー。少しでもおぼえのあるひとなら、キットでハンダゴテで工作すること
もできる。こうしたローテクノロジーが、次第に政府や行政をおいつめていったということ。
けれども、もう少し踏み込んでいうと、こうした活動がはじまるころに生じていたのは、
「知覚の内戦」とでもいえるような事態だったのではないかということ。
ウルリッヒ・ベックはリスク社会論の中で、以下のような指摘をしている。
「19世紀の危険は、感覚的に知覚することができた。それと異なり、今日の文明生活の
危険は、通常、知覚できるものではない。むしろ科学や物理学の形でしか認識されない
のである。危険を危険として視覚化して認識するためには、理論、実験、測定器具など
の科学的な知覚器官が必要である」
「ゆえに危険を知覚することは政治性を帯びる」と。
いまとなっては、わたしたちはこの「危険の知覚」が何をさすのか、もう手に取るように、
いや痛いほどわかってしまう。
この本自体、チェルノブイリ事故がドイツ、ヨーロッパにもたらした「危険」「リスク」をどう考える
かという視点から書かれているのだから、あたりまえといえばあたりまえなのだけれど。
エクストリームなリスク社会は、「危険を知覚できない」故に、「危機の知覚」をめぐり
びとの間に不信・齟齬・対立・軋轢がうまれる。
計測活動に対するおおくのそしりと、活動のよい意味でのとらえどころのなさも
ここに由来する。政治的立場を超えて「知覚器官」がとぎすまされているかどうか。
もっというと自分の知覚できているものを、すべての知覚だと錯誤したい/できる人間と、
そうではなく知覚外の知覚を欲そうとする人間との抗争。
たぶん今後、数十年にわたってこの「知覚の内戦」は状態は継続してゆく。
これをみて思うこと。ひとつとして事故後の政府や行政の情報がまったく信用できない暗闇
のなかで、たくさんの人々が申しあわせたわけでもないのにあちこちではじまった計測活動が、
レベル7のあとでのはからずもの「相互扶助」「協働」、あるいは「市民科学」であったということ。
思うに、素人が入手できるガイガーカウンターなどというものは、i-phoneと並べてみても
超ローテクノロジー。少しでもおぼえのあるひとなら、キットでハンダゴテで工作すること
もできる。こうしたローテクノロジーが、次第に政府や行政をおいつめていったということ。
けれども、もう少し踏み込んでいうと、こうした活動がはじまるころに生じていたのは、
「知覚の内戦」とでもいえるような事態だったのではないかということ。
ウルリッヒ・ベックはリスク社会論の中で、以下のような指摘をしている。
「19世紀の危険は、感覚的に知覚することができた。それと異なり、今日の文明生活の
危険は、通常、知覚できるものではない。むしろ科学や物理学の形でしか認識されない
のである。危険を危険として視覚化して認識するためには、理論、実験、測定器具など
の科学的な知覚器官が必要である」
「ゆえに危険を知覚することは政治性を帯びる」と。
いまとなっては、わたしたちはこの「危険の知覚」が何をさすのか、もう手に取るように、
いや痛いほどわかってしまう。
この本自体、チェルノブイリ事故がドイツ、ヨーロッパにもたらした「危険」「リスク」をどう考える
かという視点から書かれているのだから、あたりまえといえばあたりまえなのだけれど。
エクストリームなリスク社会は、「危険を知覚できない」故に、「危機の知覚」をめぐり
びとの間に不信・齟齬・対立・軋轢がうまれる。
計測活動に対するおおくのそしりと、活動のよい意味でのとらえどころのなさも
ここに由来する。政治的立場を超えて「知覚器官」がとぎすまされているかどうか。
もっというと自分の知覚できているものを、すべての知覚だと錯誤したい/できる人間と、
そうではなく知覚外の知覚を欲そうとする人間との抗争。
たぶん今後、数十年にわたってこの「知覚の内戦」は状態は継続してゆく。
2012年2月18日土曜日
<がれき>はほんとに“復興”のさまたげなの?
「被災地に何度も足を運んでいるががれきが復興のさまたげになっているというのは、聞いたことがない」という、環境総合研究所というシンクタンク・副所長の方の見解が紹介されていました。
被災地をくまなく調査し実際に求められているのは「住宅」と「雇用先」「原発被害の補償」だと紹介。またさらにがれき受け入れのための「安全の根拠」とされる測定方法のずさんさも指摘。
瓦礫の受け入れ、焼却については「被災地の痛みをわかちあう」といったような論調ですすめられていますが、それに一石を投じる、重要な記事だと思うので紹介しておきます。
「食べて被災地を応援しよう」は、農林水産省
「がれきをうけいれよう」は、環境省
各省庁の“復興”イニシアティヴ抗争なのでしょうか?
放射能性物質の「拡散」は避けるべし、が原則。それをあたかも復興にむけた
痛みをわかちあえるかのように粉飾してみせることには、首をかしげてしまう。
いったい誰のための、誰の利害にもとづいているのかな?と思います。
旗振りの“復興”と、ひとびとの営みの“再生”は別なはず。
被災地をくまなく調査し実際に求められているのは「住宅」と「雇用先」「原発被害の補償」だと紹介。またさらにがれき受け入れのための「安全の根拠」とされる測定方法のずさんさも指摘。
瓦礫の受け入れ、焼却については「被災地の痛みをわかちあう」といったような論調ですすめられていますが、それに一石を投じる、重要な記事だと思うので紹介しておきます。
「食べて被災地を応援しよう」は、農林水産省
「がれきをうけいれよう」は、環境省
各省庁の“復興”イニシアティヴ抗争なのでしょうか?
放射能性物質の「拡散」は避けるべし、が原則。それをあたかも復興にむけた
痛みをわかちあえるかのように粉飾してみせることには、首をかしげてしまう。
いったい誰のための、誰の利害にもとづいているのかな?と思います。
旗振りの“復興”と、ひとびとの営みの“再生”は別なはず。
2012年2月16日木曜日
新しい食品基準に対する意見:その1「日本消費者連盟」より
昨年の3月17日、政府はそれまでの食品安全基準を、突如1Kg あたり370ベクレルから500ベクレルにひきあげました。これにはとてもおどろきました。その記憶は、季節がひとめぐりした今でも生々しくよみがえってきます。通常、原子力事故がおきた際には、その基準値をひきさげて、住民の被曝を極力下げるものではないか。。。と。
ところがどっこい、そんなに甘くはなかったのです。今にして思うとこのひきあげについて、ははーんと思うのは、ICRP(国際放射線防護委員会)の定義「緊急被曝状態」期を適応してそれにしたがって、自動的に値をひきあげてみたということなのだな、と。
そして12月16日の野田首相の「冷温停止“状態”宣言」、その直後、22日の内閣の「低線量被ばく管理に関するワーキンググル―プ」の報告書発表。ここにきて同ICRPの「現存被曝状態期」へと、整備。そうした、政治日程ありきのシナリオによるものだったと容易に想像がつきます。
思い出すだに、くやしさがこみあげてくるのは、そうした暫定基準値適応さなかでの農林水産省の「食べて応援しよう」や、消費することがあたかも被災地への支援になるかのうようなさまざまなキャンペーンがはられたことです。
ちょっと考えてみればればわかることですが、通常に考えても、まるで転倒した事態です。安全基準をひきさげ、土壌検査や、食品検査体制も整えたうえで「食べて支援」というなら百歩譲ってもまだ、わからなくもない。でも、事態はまるで逆。原子力災害直後=「緊急被曝状態期」に政府がわたしたちに強いたのは、「風評被害」という言葉によって食べる・食べない、買う・買わない、という日々の営みのただなかに「生産者」と「消費者」、「気にする人」と「気にしない人」などという分断線を即座にひき、放射能被害に対する怒りや、いまだ経験したことのない放射能災害に対するまっとうな恐怖や、東電への補償を求めるあたりまえの声をおさえこみにかかったということなのです。
ところで、この基準の引き上げって誰かの利害を守ったのでしょうか?生産者の利害?食品産業の利害?とてもそうとは思えない。「ともかく今は大変な時期だ。おまえらがまんしろ」というように喧伝し、人々を黙らせ、被災地支援すらを「口実」に利用し、人々に忍従を強いようとした、原子力災害版ショック・ドクトリンだとすら思えます。
主に関東付近で生活している身にとって、日々の買い物、ごはんの支度、また友人との食事の折は、くやしさとかなしさと痛みがつねにさざなみ立っていました。ある人は「私はもう40歳ちかいからだいじょうぶ」といってなんらためらわず配慮もなく、注文してみせたり。気にする人は「エゴイスト」か「不吉」よばわりされ。。。それでもひとついえるのは「汚染されたものは食べたくない」という単なる忌避感情とはまったくちがう、この分断を強いた政府の対応に対する怒りと、生活をばかにするな、生きてくことをなめるなよ、といういままで経験したことのないような感情に促され、食材や産地をえらぶという、祈りにすら似た行為をつづけていた、いるということです。
食品基準についても“暫定”期をすぎ、4月からは新基準が導入されます。けれどもここで安心できるわけはありません。あの消費者と生産者の分断と、再生産の場を軽視した態度がデフォルトなのですから。
(時々おもうのですが、原子力災害の事後対応というのはいくばくかセクシュアルハラスメントの構造に似ていなくもない。「それぐらい気にしない」「過剰・過敏すぎるんじゃないの?」と。性暴力が存在しているにも関わらず、被害にあう可能性の高いグループを個人の「温度差」によって分断していく。「暴力が存在する」と身を以て立証しようとする人々は、時として「わたしがへんなのかな?」というような錯覚においこまれていくところ、など)
実際、暫定基準を改め、数値をひきさげたところで、その不備は多々予想・指摘されています。
(また性差別に酷似した構造であることを悟ってしまった今、このさき被害にあった側に落ち度がある、としてまともにとりあわれないだろうという手口もみぬけるというものです)。
ああ、すっかり前置きがながくなってしまいました。新規制値とそれにともなう諸問題に関して少しづつ批判点がよせられつつあります。「そもそも検査体制がおいつくのか?」「飲食以外による内部被曝とあわせてどう合算するか」、「セシウム134、137以外のストロンチウムなど検出に手間のかかる放射性物質の検出体制をどうするのか?」など。その新基準に対する、意見を紹介しておきます。
・日本消費者連盟 「食品放射能の新基準は再検討すべき」
http://nishoren.net/consumer_policy/1361
「食品に関しては極力0ベクレルをめざすべき」
「乳児に対する基準の厳格化」
「頻繁に食べる食物に関しての基準の厳格化」
などの意見と提言。厚生労働省宛に提出されたそうです。どうぞ一読を。
ところがどっこい、そんなに甘くはなかったのです。今にして思うとこのひきあげについて、ははーんと思うのは、ICRP(国際放射線防護委員会)の定義「緊急被曝状態」期を適応してそれにしたがって、自動的に値をひきあげてみたということなのだな、と。
そして12月16日の野田首相の「冷温停止“状態”宣言」、その直後、22日の内閣の「低線量被ばく管理に関するワーキンググル―プ」の報告書発表。ここにきて同ICRPの「現存被曝状態期」へと、整備。そうした、政治日程ありきのシナリオによるものだったと容易に想像がつきます。
思い出すだに、くやしさがこみあげてくるのは、そうした暫定基準値適応さなかでの農林水産省の「食べて応援しよう」や、消費することがあたかも被災地への支援になるかのうようなさまざまなキャンペーンがはられたことです。
ちょっと考えてみればればわかることですが、通常に考えても、まるで転倒した事態です。安全基準をひきさげ、土壌検査や、食品検査体制も整えたうえで「食べて支援」というなら百歩譲ってもまだ、わからなくもない。でも、事態はまるで逆。原子力災害直後=「緊急被曝状態期」に政府がわたしたちに強いたのは、「風評被害」という言葉によって食べる・食べない、買う・買わない、という日々の営みのただなかに「生産者」と「消費者」、「気にする人」と「気にしない人」などという分断線を即座にひき、放射能被害に対する怒りや、いまだ経験したことのない放射能災害に対するまっとうな恐怖や、東電への補償を求めるあたりまえの声をおさえこみにかかったということなのです。
ところで、この基準の引き上げって誰かの利害を守ったのでしょうか?生産者の利害?食品産業の利害?とてもそうとは思えない。「ともかく今は大変な時期だ。おまえらがまんしろ」というように喧伝し、人々を黙らせ、被災地支援すらを「口実」に利用し、人々に忍従を強いようとした、原子力災害版ショック・ドクトリンだとすら思えます。
主に関東付近で生活している身にとって、日々の買い物、ごはんの支度、また友人との食事の折は、くやしさとかなしさと痛みがつねにさざなみ立っていました。ある人は「私はもう40歳ちかいからだいじょうぶ」といってなんらためらわず配慮もなく、注文してみせたり。気にする人は「エゴイスト」か「不吉」よばわりされ。。。それでもひとついえるのは「汚染されたものは食べたくない」という単なる忌避感情とはまったくちがう、この分断を強いた政府の対応に対する怒りと、生活をばかにするな、生きてくことをなめるなよ、といういままで経験したことのないような感情に促され、食材や産地をえらぶという、祈りにすら似た行為をつづけていた、いるということです。
食品基準についても“暫定”期をすぎ、4月からは新基準が導入されます。けれどもここで安心できるわけはありません。あの消費者と生産者の分断と、再生産の場を軽視した態度がデフォルトなのですから。
(時々おもうのですが、原子力災害の事後対応というのはいくばくかセクシュアルハラスメントの構造に似ていなくもない。「それぐらい気にしない」「過剰・過敏すぎるんじゃないの?」と。性暴力が存在しているにも関わらず、被害にあう可能性の高いグループを個人の「温度差」によって分断していく。「暴力が存在する」と身を以て立証しようとする人々は、時として「わたしがへんなのかな?」というような錯覚においこまれていくところ、など)
実際、暫定基準を改め、数値をひきさげたところで、その不備は多々予想・指摘されています。
(また性差別に酷似した構造であることを悟ってしまった今、このさき被害にあった側に落ち度がある、としてまともにとりあわれないだろうという手口もみぬけるというものです)。
ああ、すっかり前置きがながくなってしまいました。新規制値とそれにともなう諸問題に関して少しづつ批判点がよせられつつあります。「そもそも検査体制がおいつくのか?」「飲食以外による内部被曝とあわせてどう合算するか」、「セシウム134、137以外のストロンチウムなど検出に手間のかかる放射性物質の検出体制をどうするのか?」など。その新基準に対する、意見を紹介しておきます。
・日本消費者連盟 「食品放射能の新基準は再検討すべき」
http://nishoren.net/consumer_policy/1361
「食品に関しては極力0ベクレルをめざすべき」
「乳児に対する基準の厳格化」
「頻繁に食べる食物に関しての基準の厳格化」
などの意見と提言。厚生労働省宛に提出されたそうです。どうぞ一読を。
2012年2月2日木曜日
批判声明<低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ>に
以下、内閣府のとりまとめた「報告書」に関する、日弁連会長の批判声明。
放射能の許容量/基準は、「科学的」根拠ではいっさいなく、「社会的」知見
から決定されるということは、白日のもとにさらされました。
しかし、一体、その「社会」とはなんのことか。このワーキング・グループと
報告書じたい、誰の参加のもと、誰の意見を反映してできたものなのか...
おそくなりましたが、全文を掲載しておきます。ぜひ一読を。
---------------------
政府が設置した「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」(以下「本件WG」という。)は、2011年(平成23年)12月22日付けで報告書を発表した(以下「本件報告書」という。)。
本件報告書は、昨年11月から開かれた本件WGの議論の経過を鳥瞰した上で、
① 年間100ミリシーベルト以下の被ばくでは発がんリスクの明らかな増加が証明されていないことを前提に、
② 現在の避難指示の基準とされる空間線量年間20ミリシーベルトを被ばく線量低減を目指すに当たってのスタートラインとし、
③ 子どもに対しては放射線を避けることに伴うストレスに対する影響(放射線影響そのものではない)について感受性が高いので食品を含めきめ細かな配慮が必要であるとし、
④ 放射線防護のための「正しい理解の浸透の対策の実施」のため、政府関係者や専門家が住民と継続的に対策を行うことが重要である
としている。
しかし、当連合会が昨年11月25日付け会長声明において指摘したように、このような低線量域での被ばくについては危険性が無視できるという見解と、これ以下であればがんなどが発生しないというしきい値は存在しないという見解が併存し、科学的にも決着が付いていないにもかかわらず、本件WGは低線量被ばくの健康影響について、これに否定的な見解に立つ者が多数を構成している。
昨年12月28日にNHKで放送された「追跡!真相ファイル『低線量被ばく 揺れる国際基準』」という番組において、国際放射線防護委員会(ICRP)のクリストファー・クレメント事務局長は、これまでICRPでは低線量の被ばくのリスクは低いとみなし、半分にとどめてきた(その結果が年間100ミリシーベルトの被ばくによってがんの発生率が5パーセント増加するというものである)が、それが本当に妥当なのか、現在作業部会を作って議論している旨述べており、また、ICRPの基準作りに携わってきたチャールズ・マンホールド名誉委員は、低線量被ばくのリスクを引き上げなかった背景に原発や核関連施設への配慮があり、さらに原発等で働く労働者のための基準を作るに当たり、半分に据え置かれていた低線量被ばくのリスクをさらに20%引き下げたことについても、科学的根拠はなく、ICRPの判断で決めた旨証言している。そうだとすると、「放射線による発がんリスクの明らかな増加は、(年間)100ミリシーベルト以下の低線量被ばくでは、他の要因の発がんの影響によって隠れてしまうほど小さ」いのは「国際的な合意に基づく科学的知見」であるとする本件報告書に対しては前提において大きな疑問を抱かざるを得ない。
また、そもそも疾病の原因と結果の関係が1対1で対応することは極めて稀であって、幾つかの要因が複合して疾病が発症し得ることは経験則上明らかである。放射線影響による疾病は非特異的であって症状を観察するだけでは他の要因と区別するのは困難であるが、そのことは、低線量域における放射線影響を否定する理由にはならない。
現在の避難指示の基準とされる空間線量年20ミリシーベルトは、ICRP2007年勧告において緊急時被ばく状況での下限を採ったものであるが、これも具体的な科学的知見ではなく社会的な判断の結果でしかない。のみならず、年間20ミリシーベルト未満であれば安全性が確認されているわけでもない。
現行法上空間線量が3か月1.3ミリシーベルト(年間5.2ミリシーベルト)以上の場所は放射線管理区域とされることからしても、空間線量年間20ミリシーベルトを被ばく線量低減を目指すに当たってのスタートラインとすることは余りにも高すぎる。
したがって、健康影響が起きてからでは取り返しがつかない以上、低線量被ばくであっても放射線による健康影響が否定できないことを前提に対策が検討されるべきである。
次に、本件報告書は、子どもの被ばくについて、年間100ミリシーベルト以下の被ばくについては放射線被ばくの危険という表現を避けて住民の不安感や放射線回避に伴うストレスの感受性を問題にする。
確かにそのようなリスクがあることも否定できない。しかし、子どもや妊婦の放射線感受性が高いことは確立した知見であって、この期に及んでこれを曖昧にし不安感やストレスに置き換えること自体が科学的態度とはいえない。
不安感やストレスのみならず放射線被ばくそのものに対するリスクを含め、子どもと妊婦には特に慎重な対応をすべきである。
現時点における本件WGの議論状況や本件報告書を見る限り、「政府関係者や多方面の専門家」が「正しい理解と対策の実施のため」「住民と継続的に対話を行う」としても、それは放射線影響を過小評価するものとなる懸念を拭い去ることはできない。
当連合会が昨年11月25日付け会長声明で指摘したように、低線量被ばくのリスク管理は、国民の関心の高い重要な政策課題であって、科学者の間でも見解が分かれる課題である。よって、当連合会は、本件WGの議論や本件報告書の内容を根本的に見直し、改めて、放射線被ばくのリスクを極力回避するため、幅広い分野の専門家も交えて、十分な議論を尽くした上で社会的合意を形成することを強く呼び掛けるものである
2012年1月13日
日本弁護士連合会
会長 宇都宮 健児
出典
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2012/120113_2.html
放射能の許容量/基準は、「科学的」根拠ではいっさいなく、「社会的」知見
から決定されるということは、白日のもとにさらされました。
しかし、一体、その「社会」とはなんのことか。このワーキング・グループと
報告書じたい、誰の参加のもと、誰の意見を反映してできたものなのか...
おそくなりましたが、全文を掲載しておきます。ぜひ一読を。
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政府が設置した「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」(以下「本件WG」という。)は、2011年(平成23年)12月22日付けで報告書を発表した(以下「本件報告書」という。)。
本件報告書は、昨年11月から開かれた本件WGの議論の経過を鳥瞰した上で、
① 年間100ミリシーベルト以下の被ばくでは発がんリスクの明らかな増加が証明されていないことを前提に、
② 現在の避難指示の基準とされる空間線量年間20ミリシーベルトを被ばく線量低減を目指すに当たってのスタートラインとし、
③ 子どもに対しては放射線を避けることに伴うストレスに対する影響(放射線影響そのものではない)について感受性が高いので食品を含めきめ細かな配慮が必要であるとし、
④ 放射線防護のための「正しい理解の浸透の対策の実施」のため、政府関係者や専門家が住民と継続的に対策を行うことが重要である
としている。
しかし、当連合会が昨年11月25日付け会長声明において指摘したように、このような低線量域での被ばくについては危険性が無視できるという見解と、これ以下であればがんなどが発生しないというしきい値は存在しないという見解が併存し、科学的にも決着が付いていないにもかかわらず、本件WGは低線量被ばくの健康影響について、これに否定的な見解に立つ者が多数を構成している。
昨年12月28日にNHKで放送された「追跡!真相ファイル『低線量被ばく 揺れる国際基準』」という番組において、国際放射線防護委員会(ICRP)のクリストファー・クレメント事務局長は、これまでICRPでは低線量の被ばくのリスクは低いとみなし、半分にとどめてきた(その結果が年間100ミリシーベルトの被ばくによってがんの発生率が5パーセント増加するというものである)が、それが本当に妥当なのか、現在作業部会を作って議論している旨述べており、また、ICRPの基準作りに携わってきたチャールズ・マンホールド名誉委員は、低線量被ばくのリスクを引き上げなかった背景に原発や核関連施設への配慮があり、さらに原発等で働く労働者のための基準を作るに当たり、半分に据え置かれていた低線量被ばくのリスクをさらに20%引き下げたことについても、科学的根拠はなく、ICRPの判断で決めた旨証言している。そうだとすると、「放射線による発がんリスクの明らかな増加は、(年間)100ミリシーベルト以下の低線量被ばくでは、他の要因の発がんの影響によって隠れてしまうほど小さ」いのは「国際的な合意に基づく科学的知見」であるとする本件報告書に対しては前提において大きな疑問を抱かざるを得ない。
また、そもそも疾病の原因と結果の関係が1対1で対応することは極めて稀であって、幾つかの要因が複合して疾病が発症し得ることは経験則上明らかである。放射線影響による疾病は非特異的であって症状を観察するだけでは他の要因と区別するのは困難であるが、そのことは、低線量域における放射線影響を否定する理由にはならない。
現在の避難指示の基準とされる空間線量年20ミリシーベルトは、ICRP2007年勧告において緊急時被ばく状況での下限を採ったものであるが、これも具体的な科学的知見ではなく社会的な判断の結果でしかない。のみならず、年間20ミリシーベルト未満であれば安全性が確認されているわけでもない。
現行法上空間線量が3か月1.3ミリシーベルト(年間5.2ミリシーベルト)以上の場所は放射線管理区域とされることからしても、空間線量年間20ミリシーベルトを被ばく線量低減を目指すに当たってのスタートラインとすることは余りにも高すぎる。
したがって、健康影響が起きてからでは取り返しがつかない以上、低線量被ばくであっても放射線による健康影響が否定できないことを前提に対策が検討されるべきである。
次に、本件報告書は、子どもの被ばくについて、年間100ミリシーベルト以下の被ばくについては放射線被ばくの危険という表現を避けて住民の不安感や放射線回避に伴うストレスの感受性を問題にする。
確かにそのようなリスクがあることも否定できない。しかし、子どもや妊婦の放射線感受性が高いことは確立した知見であって、この期に及んでこれを曖昧にし不安感やストレスに置き換えること自体が科学的態度とはいえない。
不安感やストレスのみならず放射線被ばくそのものに対するリスクを含め、子どもと妊婦には特に慎重な対応をすべきである。
現時点における本件WGの議論状況や本件報告書を見る限り、「政府関係者や多方面の専門家」が「正しい理解と対策の実施のため」「住民と継続的に対話を行う」としても、それは放射線影響を過小評価するものとなる懸念を拭い去ることはできない。
当連合会が昨年11月25日付け会長声明で指摘したように、低線量被ばくのリスク管理は、国民の関心の高い重要な政策課題であって、科学者の間でも見解が分かれる課題である。よって、当連合会は、本件WGの議論や本件報告書の内容を根本的に見直し、改めて、放射線被ばくのリスクを極力回避するため、幅広い分野の専門家も交えて、十分な議論を尽くした上で社会的合意を形成することを強く呼び掛けるものである
2012年1月13日
日本弁護士連合会
会長 宇都宮 健児
出典
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2012/120113_2.html
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