2014年11月29日土曜日

ギュンター・アンダース「核の時代のテーゼ」:大胆不敵な不安

ギュンター・アンダースは、ベンヤミンのいとこ。反ファシズムの非合法活動にかかわり、
戦後は原子力時代の幕開けに際しファシズム経験を軸に、
『異端の思想』『時代おくれの人間』はじめ、広島、長崎に関しても数冊の書物をのこしている。

カフカ研究のかたわら、ヨーロッパの反核運動のなかでロベルト・ユンクとともに「核の時代の」
哲学者とよばれる。
チェルノブイリ事故も見届け、1992年に亡くなった。

そのギュンター・アンダースが、1959年に残した「核の時代のテーゼ」という一文中に、
「不安について」というなんとも不思議な一説がある。

おそらく事故の前にもこのくだりには触れてれてはいたはずなのだけど、
すっかり忘れていた。

原発事故以降、「不安」「恐怖」こそが、まっさきに鎮圧の対象になった。

ひとたび事故が起き、もはや技術を操作できないと悟れば、政府も電力会社も即人間を操作する方向に力をそそぐのは、ある意味、原子力の本質なのだ。

だから、いまだに、というか来年度の「復興事業予算」でも、実際の健康対策以上の予算はびびたるものなのに、「不安解消事業」に莫大な金額が投入されている。(ホール・ボディーカウンターもここに計上されているのは、笑止。それがまじない、気休めだとみずから告白しているようなものだ)

それでもこんな状況で「不安」や「恐怖」は決して、完全に鎮圧しきれない。
ちょっと静かになったかな、このままみんな黙ってしまうのかな、と思っても
恐怖をよびさます現象や、出来事は一回性のものにはおさまらない。

あたりまえだ。 原因は、凶暴・凶悪な「核」なのだから。
そんななかで行儀よく、とりすましているられるほうがよっぽどの「狂気の沙汰」なのだと思う。


Theser zum Atomzeitetalter by Gunther Anders

不安について

生々しく「無」を表象することは、心理学における「表象」ということばで私たちが
イメージするものとは同じではない。

むしろそれが具体的に現実化するのは、不安としてである。

わたしたちの不安は小さすぎて、現実や脅威の規模にみあっていない。

ーーわたしたちはすでにずっと「不安の時代」に生きていた、というような、
知ったかぶりをする人々が好むフレーズとほど間違ったものはない。

わたしたちにそうしたことを吹き込んでいるのは、真の不安を、つまり危険性に
見合ったわたしたちのを不安を感じる能力に対してこそ、不安をもつ者たちを、
メディアであれこれもちあげるような手合いにほかならない。

むしろわたしたちははるかに、無害化された不安、不安を抱くことの無能力の
時代に生きている。

したがって私たちの表象力を拡大せよ、という命法が具体的に意味するのは、
わたしたちの不安を拡大しなければならない、ということである。

命題

・不安に対する不安を抱くな。
・不安への勇気をもて。不安を引き起こす勇気も。
・自分自身にも隣人にも不安を感じさせよ。

もちろんこの種の不安は、次のように非常に特殊なものでなくてはならない。

1.大胆不敵な不安。私たちを臆病ものとして嘲弄する者に対する不安とは無縁だから。

2.活気をもたらす不安。わたしたちを部屋の片隅にではなく街角へと駆り立てるものであるのだから。

3.わたしたちに降りかかりうるものだけでなく世界についての不安をもたらす愛をともなう不安。


「核人間/ホモ・ニュークレアリウス」あるいは,牧人司祭権力


3年以上たってやっと核惨事下で進行中の事態を「思想化」する糸口をつかもうとしているひとたちの趨勢がうまれつつあるようにおもう。姿はみえないのだけど、そうした人たちの存在は、確実に「遍在」している。


----「意識は“事故”があってはじめて覚醒する」 ヴァレリー ----


思えば事故当初から、少なからぬひとびとが、徒手空拳でこの事態にむきあった。
物質の具体性を、出来事の具体性を、時間の不可逆性を把握しようと、知覚を研いだ。

現状を否認したいがための予見、たかをくくったような逆ばりのレトリック、
しがらみや、習い性、思考の癖からでたことば。 具体性の裏付けのない抽象論は、
これからも、ぶざまに「現実」に裏切られていく。


いまも進行中の未曾有の事態にあっては、本来、だれしもがこの事態の<門外漢>なのだ。
だから徒手空拳であることに、てらいのない人間は、おそらく踏みまちがえない。


これは必読。

「天にまします我らが専門家よ 福島国際専門家会議をめぐる門外漢の考察」
http://csrp.jp/posts/1923
ナディーヌ・リボー、ティエリー・リボー


"原子力を続けるか否かという問題ではなく、原子力とともに生きていける人間をいかにつくるかという問題に解答をもたらし得るのは科学(技術、遺伝学、医学、心理学)しかないという議論——偽りの議論——なのである。まさに「ホモ・ニュークレアリウス(核人間)」の完成に向けた作業なのである"

核惨事下にあってわたしたちがおそれてきたのは、「物質」そのものであると同時に、「専門家」による、このしらじらしくもわざとらしい「操作」、社会演出そのものだ。科学ににせようとした、ことばのレトリックだ。

別のことばにいいかえよう。

「原発事故の際に、もはや技術を操作できないゆえに、人間を操作する方向に切り換えることは原発の本質からくる当然の帰結であると言える」  『チェルノブイリの雲の下で』

もともと凶暴・凶悪な「核兵器」を、社会のなかに「発電」と称してうめこんできたのだから、被ばくを受忍させるための人間への操作は、巧妙だ。

ゆえに、この操作は、つねに「暴力」の形をとってあらわれるとは限らない。

「被ばくについてさわぎすぎると、もっとも汚染されたところに暮らす人を傷つける」
「福島県民を傷つける」「被ばくの恐怖を語ることは差別にむすびつく」という風に、
人々に「内省」と「慎み」と「疚しさ」をうえつける。

この信仰はまた、免罪符にはことかかない。「食べて応援」「福島に観光」「被災者に寄り添う」「測って安心」。

けれど、免罪符がつねにそうであるように、結果として恩恵が与えられるのは
とうの人々ではなく、司祭権力であり、免責されるのも核シンジケートそのものなのだ。



「ダナイデスの水瓶神話」「FUKUSHIMAのダナイデス」

父親=家父長にいわれるままに従い、殺害をおこなったダナイデスの娘たち。
彼女たちはその罰として、永遠に、そこの抜けた水がめに水汲みの作業を続け
ることになった。

フランス、ブゲイ原発敷地付近に「FUKUSHIMAのダナイデス」
となずけられたグラフティが忽然とすがたをあらわした。

このところ、廃炉現場の不具合が断片的に報じられている。
東京電力初の廃炉工程の「遅れ」を発表。
東京オリンピック決定前に鳴りものいりで入札にわきたち、
320億円の公費を投入した「凍土壁」の失敗。

廃炉作業は当面、先がみえない。
廃炉作業自体が、永遠のダナイデスの水瓶神話のようだ。

それでいて、この事態は核惨事という「例外状態」のようであっても、
とっくに原子力産業、あるいは核災害史の「部分」にくみこまれていること、
原子力シンジケートの利益に十分にかなっているということだ。

日本政府は、この3年間、けちるところはけちっておきながら、
実証性にとぼしい廃炉作業にいったいいくらつぎこんできたのか。
福島第一原発は、原子力シンジケートの廃炉技開発のねがってもみない
「試験場」「実験場」にされてもいる。

 ---“アリストテレスのいうように、「事故(=偶有性)は、実体を露わにする」としたら「実体」
の発明は、同時に事故の発明でもある。

 それゆえに難破とはまさに船舶の「未来派的」発明品だし、墜落は超音速機のそれだ。
チェルノブイリが原子力発電のそれであるのも、全く同様だ”---

                     『アクシデントと文明』  ポール・ヴィリリオ


アレヴァの浄化装置、アルプスにはじまって、英国セラフィールドとの技術協力。
IAEAと米国の主導によるCSC条約加盟によって、米国核企業の福島廃炉現場
への具体的な参入も可能になった。

NHKの廃炉プロジェクト40年だったかの番組をみてみるといい。
困難な廃炉作業にたちむかうという「空虚」を、技術開発という「夢」で
粉飾したストーリーになっている。

福島県政の「復興神話」へのむやみな自負も、こうした国際原子力シンジケートと
廃炉国際ビジネスの存在と無関係ではない。

◆経産省「福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想」
ロボット開発で「浜通り=イノベーションコースト復興計画」

http://www.asyura2.com/14/genpatu39/msg/648.html

核災害、原発事故の社会統制を福島という地方行政単位、
日本という主権国家の枠組み「だけ」でみていると、あしもとをすくわれる。